スポンサーサイト

 --, -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです(ヨハネ14:18) 

クリスチャンは、排他的で偽善的と思われている節があります。それはなぜでしょうか?  もしかしたら多くのクリスチャンが、家を持たない「孤児の霊」の影響下にある生き方をしているからではないでしょうか?

「家」とは、安心して愛と情熱を受け取り、自分の価値と使命を知る場所です。神が本当におられる「家」なら、液体のような愛情が流れるLiquid Love of Godを体験します。このような愛を感じないとき、私たちは偽の愛情に惹かれます。孤児は生き残るために強くなければなりません。

あなたは神に幸せをもたらすために、神のためにどれだけ努力し、苦労し、奮闘しなければならないと勘違いしていませんか? 毎朝、あなたが目覚めて生きていることこそがが神に幸せをもたらします。あなたの中にキリストが生きていること、このことが私たちの信仰なのです。 多くの人は神が私たちを愛していることは知っていますが、その愛を日常生活のなかで感じたことがありません。

教会でも聖会でも孤児はたくさん集まります。そしてパパが来たときに、パパにハグしてもらった! とかパパにキスしてもらった! とか大喜びするのですが、それ以外はパパの愛を知らないで孤児のように生活するのです。

神が作られた教会とは、日曜日にだけ集まって儀礼的な礼拝を捧げることではなく、日々この世界にあって、心を尽くし思いをを尽くし知力を尽くして神を愛し、隣人と自分自身のように愛することが出来るようにと、みことばを味わいながら、キリストにつながる同じ霊を内包する兄弟姉妹と共に祈りあい 、慰め合い、励ましあう愛の「家」なのです。 

詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい(エペソ5:19)

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ3:16)

ふたりでも、三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからである(マタイ18:20)

そこには、なんでも相談できる偉大な天のパパがいつもいて、自分の価値や召命を知ることができます。私たちは神の召命を知り、その召しに忠実に生きるとき、束縛から解放され自由と喜びに満ちた人生を送ることが出来ます。まだ、そのような「家」、クリスチャンのフェローシップ(共同体)に出会っていないなら、天のパパに祈り求めてみてください。あなたにあった「家」に導いてくださいます。 

 主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります(2コリント3:17) 

 孤児の霊は分裂をもたらします。孤児の霊は、教会同士、教派同士、クリスチャン同士を争わせ、どちらが優れているか、どちらが正当か、どちらが天のお父さんに愛されているかを競わせようとします。そこに本当の神の愛があるのでしょうか? 聖書にはOO教団、OOO教派は存在しないのです。そして天国には、教団・教派に分かれた住まいが用意されているわけではありません。それぞれ地上での行いによって、もらう褒賞が違うだけです。 

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)


スポンサーサイト

主はどんな方か

 16, 2016 11:56

主はどんな方か 

礼拝メッセージ(9/4)

 昨晩、私が参加しているコーラスグループのライブがあり、その中でBecause of who you are というゴスペルを歌ったのですが、曲中に主(神)の名前が3つ出てきました。ジェホバ・ジャイラジェホバ・ニッシジェホバ・シャロームです。主の素晴らしさを想いながら歌ったのですが、主はどんなお方なのか、今日はじっくりと聖書から味わっていきたいと思いまます。


(1)ジェホバ・ツィドゥケヌー(主は私たちの義)


その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は「主は私たちの正義」と呼ばれよう。(エレミア23:6)


イエス・キリストによって私たちは神の義を自分のものとすることができるようになりました。神の御前に、罪意識、罪悪感、恐れ、劣等感を持たずに立つことができます。



神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリ5:21)


たとえてみれば、私たちの罪は、すでにイエス・キリストの預金口座に移され、イエス・キリストの持っておられる義が、今や私たちの預金口座に振り込まれたのです。



すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです(ロマ3:24〜25)


そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)




(2)ジェホバ・シャローム(主は私たちの平和)


すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。これで、この方が主の使いであったことがわかった、それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなささい。恐れるな。あなたは死なない。」そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名付けた。これは今日までアビエゼル人のオフラに残っている。(士師記6:20〜24)


しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)


その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1:20)


神との平安がないので、社会は破壊的な影響力によって堕落し、歪んで異常な様相を呈しています。恐れは、人々を苦しめ、困惑をもたらせ、彼らの可能性を阻んでいます。

神と調和していないとき、人間の霊の中では争いや衝突を起こしやすい状態になります。

神との親交がなければ、真の平安を保つこと決してできません。

戦争、家庭不和、地域社会の暴力、野蛮な行為、憎しみ、虐待、殺人…これらは人間の心の中に神との平和が欠落していることが原因です。

神との平和がなければ、自分の家族、隣人、国の人々にも平和がないばかりか自分自身とも調和できず平和を保つことができません。



イエス・キリストは言われました。「あなた方に平安を残します」(ヨハネ1427

キリストこそ、私たちの平和です(エペソ2:14、15)


そして、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエスキリストによって、神との平和を持っています(ローマ5:1)




(3)ジェホバ・ジャイラ(主は導き手)


主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(詩篇23:1)


主は、豊かな供給を持ってあなたを導いてくださいます。



主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(イザヤ58:11)


主は、絶えずあなたを導いてくださいます。



あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。(詩篇73:24)


主は、あなたに助言を与えて導かれます。



主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる(詩篇121:7)


良い羊飼いはすべての落とし穴を知っています。主は、すべての災いから私を守ってくださいます。


私たちの夢は実現される日が来たことを知るでしょう。私たちの羊飼いであられる神の導きを信頼し、神とともに歩んでいる限り、ずっと光に照らされながら道を進んで行くことになるでしょう。




(4)ジェホバ・ラファ(私はあなたのいやし主)


わたしはあなたのいやし主(出エジプト15:26)

私たちの病を身に引き受け、私たちの病を背負われた(マタイ8:17)


多くの人々はもしかしたら神が何か人知を超えた目的のために病気という手段を用いているのかもしれない、と思い込むのです。あるいは、病気は私たちに忍耐や謙遜、我慢や服従などを教えることができる、と思っているかもしれません。


様々な目的を成し遂げるために、また自分の家族、仕事、周囲の人々の中にあって人生における勤めや願いを果たすために、あなたは健康を必要をしています。



わたしは主、あなたをいやす者である(出エジプト15:26)


申命記28章には、神に対する不従順の結果としてもたらされた破壊的な報酬のあらましが書いてある。人類を苦めてきた恐ろしい病が列挙されています。


罪の報酬は死です。(ローマ6:23)しかし、イエス・キリストを与えてくださったことにより無罪となりました。(ローマ5:9)もう病を負う必要はもうありません。あなたが、すべての点でも幸いを得、また健康であることを、主は望んでおられるのです。(Ⅲヨハネ1:2


ジェホバ・シャマ、ジェホバ・ニシについては、後日のメッセージでお伝えします。(参考文献:TLオズボーン 新しい奇跡のいのち

hide and seek 
礼拝メッセージ(6/19)
私たちのために 神は隠されます

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)


イースターの卵探しのときには、幼い子供達が卵を見つけやすいように隠します。
子供達は探すことに楽しみを見いだし、見つかった時には大喜びします。
子供が成長にするにつれて、卵の隠し方を変えます。
捜している子供を見て親は子供が卵を見つけたとき、大喜びします、そして満足します。
そのように霊的成長においては、その成長段階においては、み言葉に隠されている啓示(真理)が与えられ、成長すればするほど神に近づいていきます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。(ルカ 18:17)


発見の喜びは、神の国を第一に求めること。
ただし条件として、子供のように疑わず信じて受け入れることに関係があります。


事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。(箴言25:2)

神は事を隠すことに栄光を受け、私たちは王であり祭司なので探すことで誉れを受けます。

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(ヨハネ黙示録1:6)


私たちはその権利があります。隠されている真理を探すとき、奥義を探ることは相続の一部であり、
キリストとともに治める王としての役割を実践することなのです。
そして真理を知ることで、それに従う責任が伴います。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)

ですから、飢え渇きの少ない人は、真理に従う可能性が少ないため、神は啓示を隠すことによって 真理に従う責任 を負うことからその人を守っています。私たちは飢え渇きを覚えることによって、その責任の重みに耐える力を与えて下さるのです。そのために、神は 御言葉の真理 を隠されます。これは私たちのためなのです。

というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
 確かに見てはいるが、決してわからない。
 この民の心は鈍くなり、
 その耳は遠く、
 目はつぶっているからである。
 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
 その心で悟って立ち返り、
 わたしにいやされることのないためである。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。(マタイ13:12〜23)


種はどんな場所にもまかれます。そして成長するかしないかは、その種を受け取る側の私たちの心の問題です。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコ4:12)

種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、
世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4:14〜20)


隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4:22)

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。(マタイ13:23)


み言葉を聞いて信じて受け取る人は実を結びます。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。」(マルコ4:11)

隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4:22)

イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。(マルコ4:33)

私たちも日々真理への飢え渇きを覚え、実を結ぶ者となりましょう。
お忙しくて日曜日の礼拝に参加できない方向けに、
メッセージのアウトラインをこれから毎週掲載していこうと思います。
聖書は新改訳を使用しておりますが、別訳を使用する場合には注釈をつけております。


聖書的アンガーマネージメント


心に悩みを抱えていらっしゃる方の多くは、
潜在意識の中に「怒り」を溜め込んでいるのではないでしょうか。
過ぎ去ったはずなのに、ふとフラッシュバックして怒りに震えてしまう、
体がこわばる、硬直するなどの症状もお有りかと思います。

聖書で「怒り」と訳されているギリシャ語には2つの言葉があり、
1つは情熱やエネルギーという意味で、もう1つは興奮、動揺、沸騰するという意味です。

(旧約聖書)
あなたがたは怒っても罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。
義のいけにえを主にささげて主により頼みなさい。(詩篇4:4-5 ※口語訳)

(新約聖書)
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26-27)

怒ることは罪ではなく、怒りを長引かせることが罪なのです。
そのことによって、悪魔にチャンスを与えてしまいます。
創世記のカインは、アベルに対する怒りを収めることができなくて
ついに人類最初の殺人を犯してしまいます。(創世記4:8)

箴言には、いくつも怒りについての聖句がありますね。
(次回取り上げます)

どんな時に人は心に怒りを覚えるのでしょうか?
1)間違ったこと に怒ります。
2)自分にとって嫌なこと、不満なこと に怒ります。
3)他者を自分の意見に従わせたいとき に怒ります。


社会的正義、宗教的正義の怒りは正しいのでしょうか?

1)人の怒りは神の義を実現させるものではありません(ヤコブ1:20)
2)愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。(ローマ12:19)

人の怒りは、神の代弁者として神の義を実現することはできないと聖書は語っています。
相手の上に燃える炭火が置かれるという聖書の法則を実行していただくために、
呪うのではなく相手の祝福を祈りなさいと。

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせない。渇いたら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:20-21)



正しい者と悪い者と一緒に殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになるということを、
あなたがなさるはずはありません。とてもありえないことです。
全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。(創世記18:25)


この聖句を握りながら、祈ることも大切だと思います。

詩篇4:4-5では、2つの解決方法が書いてあります。
1) 床の上で静かに自分の心に語りなさい。
2)義のいけにえを主にささげて主により頼みなさい。

1)は静まって客観的な視点を持つことの大切さを教えてくれています。
2)義のいけにえとは何か? 神との正しい関係を築くために
  神の戒めを守る(善をもって悪に打ち勝つこと)ことだと思います。


聖書的に怒りをコントロールできる コミュニケーション4つの法則
(エペソ4:15、25-32)

1)正直に話すこと(エペソ4:15、25)
 他者は私の心を読むことはできません。愛を持って真実、真理を話さなければいけません。

2)時間を置かないでで話すこと(エペソ4:26-27)
 怒りを感じていることがコントロールできなくなるまで時間を置いてはいけません。
 怒りが大きくなる前に、相手に話しましょう。

3)責めるのは相手自身ではなく、怒りの原因のみ(エペソ4:29、31)
 感情にまかせた罵詈雑言はやめましょう。人の徳を養うのに役立つ言葉で、聞く人に恵みを与えましょう。
 自分の声のトーンもコントロールしましょう。(箴言15:1)

4)感情的に反応するよりも能動的な行動を(エペソ4:31-32)
 私達が本来持っているものは、非常に感情的で衝動的な反応です。(エペソ4:31)
 神に喜ばれる態度が何であるか、深呼吸したり10まで数えることで、冷静に考えます。
 怒りは問題を解決するためにあり、問題を大きくしたり複雑化することではないことを理解します。
 相手を滅ぼすことではなく、赦しと愛の解決法があることを心に留めます。(エペソ4:32)
 心の中に相手を滅ぼしたいという気持ちがあるなら、悪魔があなたの怒りを利用している証拠です。
 なぜなら、悪魔は私たちの心の中に、盗んだり殺したり滅ぼしたりする思いを入れるからです。(ヨハネ10:10)

聖書的に見て、「怒り」とは数々の問題を解消するために神様が下さったエネルギーです。
これを効果的に利用することで、心の体のバランスを取っていきましょう。

聖書的な怒りの例として
1)預言者ナタンが話した不正のたとえ話に対するダビデの怒り(Ⅱサムエル12)
2)神の神殿で商売していたユダヤ人に対するイエス・キリストの怒り(ヨハネ2:13-18)
3)パウロが偽善的なペテロを叱責するところ(ガラテヤ2:11-14)

などありますが、これらの怒りは、自己防衛ではなく他人や真理を守るためのものでした。

では、悪い人が罪の無い人を虐げる時に感じる怒りについて、
私たちは何も反論せずに、泣き寝入りしなくてはいけないのでしょうか?

次回、ぜひ取り上げたいと思います。

WHAT'S NEW?

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。