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hide and seek 
礼拝メッセージ(6/19)
私たちのために 神は隠されます

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)


イースターの卵探しのときには、幼い子供達が卵を見つけやすいように隠します。
子供達は探すことに楽しみを見いだし、見つかった時には大喜びします。
子供が成長にするにつれて、卵の隠し方を変えます。
捜している子供を見て親は子供が卵を見つけたとき、大喜びします、そして満足します。
そのように霊的成長においては、その成長段階においては、み言葉に隠されている啓示(真理)が与えられ、成長すればするほど神に近づいていきます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。(ルカ 18:17)


発見の喜びは、神の国を第一に求めること。
ただし条件として、子供のように疑わず信じて受け入れることに関係があります。


事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。(箴言25:2)

神は事を隠すことに栄光を受け、私たちは王であり祭司なので探すことで誉れを受けます。

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(ヨハネ黙示録1:6)


私たちはその権利があります。隠されている真理を探すとき、奥義を探ることは相続の一部であり、
キリストとともに治める王としての役割を実践することなのです。
そして真理を知ることで、それに従う責任が伴います。

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6)

ですから、飢え渇きの少ない人は、真理に従う可能性が少ないため、神は啓示を隠すことによって 真理に従う責任 を負うことからその人を守っています。私たちは飢え渇きを覚えることによって、その責任の重みに耐える力を与えて下さるのです。そのために、神は 御言葉の真理 を隠されます。これは私たちのためなのです。

というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。
 確かに見てはいるが、決してわからない。
 この民の心は鈍くなり、
 その耳は遠く、
 目はつぶっているからである。
 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
 その心で悟って立ち返り、
 わたしにいやされることのないためである。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。
ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。(マタイ13:12〜23)


種はどんな場所にもまかれます。そして成長するかしないかは、その種を受け取る側の私たちの心の問題です。

それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。(マルコ4:12)

種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、
世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4:14〜20)


隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4:22)

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。(マタイ13:23)


み言葉を聞いて信じて受け取る人は実を結びます。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。」(マルコ4:11)

隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。(マルコ4:22)

イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。(マルコ4:33)

私たちも日々真理への飢え渇きを覚え、実を結ぶ者となりましょう。
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