わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです(ヨハネ14:18) 

クリスチャンは、排他的で偽善的と思われている節があります。それはなぜでしょうか?  もしかしたら多くのクリスチャンが、家を持たない「孤児の霊」の影響下にある生き方をしているからではないでしょうか?

「家」とは、安心して愛と情熱を受け取り、自分の価値と使命を知る場所です。神が本当におられる「家」なら、液体のような愛情が流れるLiquid Love of Godを体験します。このような愛を感じないとき、私たちは偽の愛情に惹かれます。孤児は生き残るために強くなければなりません。

あなたは神に幸せをもたらすために、神のためにどれだけ努力し、苦労し、奮闘しなければならないと勘違いしていませんか? 毎朝、あなたが目覚めて生きていることこそがが神に幸せをもたらします。あなたの中にキリストが生きていること、このことが私たちの信仰なのです。 多くの人は神が私たちを愛していることは知っていますが、その愛を日常生活のなかで感じたことがありません。

教会でも聖会でも孤児はたくさん集まります。そしてパパが来たときに、パパにハグしてもらった! とかパパにキスしてもらった! とか大喜びするのですが、それ以外はパパの愛を知らないで孤児のように生活するのです。

神が作られた教会とは、日曜日にだけ集まって儀礼的な礼拝を捧げることではなく、日々この世界にあって、心を尽くし思いをを尽くし知力を尽くして神を愛し、隣人と自分自身のように愛することが出来るようにと、みことばを味わいながら、キリストにつながる同じ霊を内包する兄弟姉妹と共に祈りあい 、慰め合い、励ましあう愛の「家」なのです。 

詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい(エペソ5:19)

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。(コロサイ3:16)

ふたりでも、三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからである(マタイ18:20)

そこには、なんでも相談できる偉大な天のパパがいつもいて、自分の価値や召命を知ることができます。私たちは神の召命を知り、その召しに忠実に生きるとき、束縛から解放され自由と喜びに満ちた人生を送ることが出来ます。まだ、そのような「家」、クリスチャンのフェローシップ(共同体)に出会っていないなら、天のパパに祈り求めてみてください。あなたにあった「家」に導いてくださいます。 

 主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります(2コリント3:17) 

 孤児の霊は分裂をもたらします。孤児の霊は、教会同士、教派同士、クリスチャン同士を争わせ、どちらが優れているか、どちらが正当か、どちらが天のお父さんに愛されているかを競わせようとします。そこに本当の神の愛があるのでしょうか? 聖書にはOO教団、OOO教派は存在しないのです。そして天国には、教団・教派に分かれた住まいが用意されているわけではありません。それぞれ地上での行いによって、もらう褒賞が違うだけです。 

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)


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